読み物『ヴァナ・ディールの女たち』
第11回 北壁を越えて

エルヴァーンたちが“北壁”と呼ぶアシャク山脈。その難所のひとつ、ラングモント峠を通り抜けた友と私の眼前には、どこまでも白く凍てついたボスディン氷河が広がっていた。

頬を刺すような冷たい風、ただひたすらに降り続ける氷雪……。すさまじい冷気は、外套の分厚い生地越しに体温を奪い去り、ものの数分で私の表情までをも凍りつかせた。

そこは、ごく限られた生命しか生きることを許されていない、美しくも厳しい世界だった。

ジュノ方面へ移動するなら、ラテーヌ高原に戻ってからジャグナー森林を抜けるべきだった。いや、友の勧めに従って、素直に飛空艇に乗ればよかったのか……。後悔しつつも覚悟を決めた私は、見送りに来てくれた友に別れを告げようとした。

その時、彼女が声を張り上げた。

「人だ! 虎に襲われている!!」

吹雪の中で目を凝らすと、ミスラの少女に剣虎がにじり寄っているのが見える。2頭だ。凄まじい咆哮に怯えきった少女は、手に持った弓を構えることもできずに立ちすくんでいる。私たちは全力で走りながら視線で合図を交わし、二手に分かれた。

勇敢な友は、剣をすらりと抜くと、虎たちの視界に飛び込んで注意を引きつけた。虎たちは大きくほえた。

写真 その隙に私は、少女の体を両腕で抱えて数ヤルム先の深い雪の上に飛び込んだ。しかし、1頭がそれに気づいて牙をむき、こちらをめがけて大きく跳躍した。

少女の悲鳴が響きわたったその時、傍らで鈍い音がした。目の前に滑り込んできた友が、盾で虎を跳ねのけたのだ。間髪入れずに剣を叩き込まれた虎は、低く長くうなって倒れた。

彼女は残りの1頭もあっという間に片づけると、周辺の魔物たちを次々と引きつけては切りかかっていった。その鮮やかな剣さばきに目を奪われている私を、彼女は一喝した。

「何をしている! 娘を連れて早く逃げろ!!」

我に返った私は、少女の冷え切った体を外套でくるみ、抱え込むようにして連れ去った。少女は背中に傷を負っていたが、何とか自力で走ることができた。

一刻も早く安全な場所に少女をかくまうべきだったが、どうしても残してきた友が心配だった私は振り返った。すると、彼女の方が先に叫んだ。

「わたしに構わず行け! それが騎士に対する礼儀だぞ!」

やれやれ、別れ際まで叱られっぱなしだな……。私は思わず微笑しながら、こう返した。

「……また会おう! 必ずだ!!」

高く掲げられた彼女の剣が、雪明りを受けて光ったように見えた。

やがて吹雪はやんだ。空は依然として物憂げな雪雲に覆われていたが、日の光がうっすらと透けて見えた。私は少女の背中に手当てをすると、彼女を背負って南を目指した。2人とも疲弊していたが、雪が小降りになっているうちに、一気に歩を進めたかった。

雪に足を取られながら歩き続けた末、どうにかバタリア丘陵へと続く山道までたどり着いた。私たちは大きな岩の陰で火を起こし、夜明けを待つことにした。

干し肉と黒パンをわけ与えると、少女は夢中でほおばった。焚き火が照らし出したその顔には、まだあどけなさが残っていた。

写真
「君は随分若いけど、氷河までたったひとりでやってきたの?」


彼女は頷いて水の入った器に手を伸ばすと、あっという間に飲み干した。

「若いうちから狩りに出るのは、ミスラにとってあたりまえのことなの。あたしは遠くに来すぎたけど……」

助けてくれた礼にと言って、彼女は自分の故郷の話を聞かせてくれた。

カザムという漁村での暮らしのこと、かわいい妹たちのこと、それから尊敬する族長ジャコ・ワーコンダロのこと……。私は、まだ見ぬ南方の地に思いを馳せた。

「あたしね、カザムで待ってる妹たちにも見せてあげたくて、氷河の雪をちょっとだけ持ち帰ってきたの」

少女は長い尻尾を振って、胸元から取り出した小袋の紐を解いてみせた。ところが、そこに詰め込まれていたはずの雪は、焚き火の熱ですっかり水になってしまっていた。いつ泣き出されるかとひやひやしながら、私はこんなふうに言った。

「大切なのは、見たり触れたりできない何かの方なんだ。たとえば妹たちを想う君の優しい気持ちとかさ」

少女は黙って頷くと、小さく丸まって、そのまま眠ってしまった。

翌朝バタリア丘陵に出ると、ここでも雪がちらつきはじめた。少女と私は、ほんの少しだけ遠回りをしてヘヴンズ・ブリッジの袂まで歩き、そこで別れることにした。

少女は橋の上に立ち止まり、眩しそうに目を細めて雪空を見上げていた。

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