読み物『ヴァナ・ディールの女たち』
第12回 ガルーダ風の宵に


旅を始めてから、もうどれくらいになるだろうか。そろそろジュノの喧噪が恋しくなってきた頃だったが、当分の間、戻るのはやめておくことにした。街に足を踏み入れた瞬間、夢から覚めて、旅が終わってしまうような気がしたからだ。

旅の終着点は定かではなかったが、まずは海峡を越えてロランベリー耕地とソロムグ原野を結ぶジュノ大橋を目指そうと考えた。

道すがら、ジュノに暮らす人びとのことをぼんやりと思い出していた。

露店商の親爺はめざとく私を見つけると、必ずおかしな仕事を押しつけてきたものだ。下層では酒場の常連につかまったら最後、早朝からでも酒盛りにつき合うはめになる。しかし、何度飲んでも互いの名前を覚えられないのは不思議だった。大家の奥方にうっかり出くわすのも災難のひとつだった。大公兄弟の噂話に延々とつき合わされるか、飛空旅行社勤めの長女との縁談を5分に1回持ちかけられることになる。

苦笑しながら、無意識のうちに歩を進めていた私は、ふと足を止めた。あるはずのないロランベリー畑が、視界に入ったからだ。目指していたソロムグ原野とは別の方向であるばかりか、随分と遠ざかってしまっているではないか。

私はかつてロランベリー畑の警備を生業としていたことがあり、数ヶ月間ジュノと畑の間を徒歩で通っていた。どうやらその道のりをずっと覚えていた両足が、ご丁寧に昔の任地へ連れてきてくれたらしい。

別段、先を急ぐわけでもなかったので、私はロランベリー畑の柵にもたれかかり、懐かしい段々畑を眺めた。

この辺りのほとんどの畑は、ジュノに居を構える畑主が営んでいる。彼らは収穫期が近づくと、熟した果実を狙う盗人や獣人から畑を守るため、衛兵を募るのだ。

衛兵の仕事には危険がついてまわったが、その分、賃金は悪くなかった。何よりも私は、ここの穏やかな風景が好きだった。 写真

当時と同じように、重たいブーツを脱いで一服していると、怪訝そうな顔をしたグゥーブーが、私を一瞥してゆっくりと通り過ぎていった。

単純な力仕事をさせるため、また侵入者を牽制するために、彼らを手なずけて働かせている畑主は当時もいた。衛兵をしていた頃の私は、見るからに半人前だったせいか、隣の畑のグゥーブーと目が合う度に、追いかけ回されたものだった。お陰で、逃げ足だけは速くなった。

そんな思い出に浸っていた時だ。のどかな田園風景に乾いた銃声がとどろき、足元の土を跳ね上げた。確実にこちらを狙っている。

私が畑に飛び込んで伏せるのと同時に、また1発放たれた。目の前でロランベリーの葉が宙に舞い、熟した果実が弾け飛ぶ。

石像のごとく硬直した私は、銃声のした方向に全神経を集中させて3発目を警戒した。

そのまま息を殺して数十秒が過ぎた。冷たい汗が、背すじを這う……。

と、その時、銃声ではなく若い女の悲鳴がこの静寂を破った。程なくして、せわしない足音が畑をかき分けながら駆け寄ってきた。
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「ごっ、ごめんなさい! その……てっきりいつもの盗人ゴブリンかと思っちゃって!」

一気に脱力した私は、ごろりと横に転がって夕空を仰ぎ見た。

「……なかなか、いい腕してるよ」

私の顔を不安そうにのぞき込んでいたのは、黒絹のような髪が印象的なヒュームの女だった。肩からは、その品のいい顔立ちに釣り合わない、マッチロック式の武骨な長銃をぶら下げている。

そんなもので狙撃されたのだと知った私は、思わず身震いした。物騒な世の中だ。

話を聞けば、女もロランベリー畑の衛兵であることがわかった。何でも飛空艇パスが欲しいとかで、懸命に働いているのだそうだ。

その後、盗人ゴブリンをいかに追い払うかという話で意気投合していると、不意に酒は飲めるかと尋ねられたので、まあ人並みだ、と答えてみた。

すると彼女は、収穫小屋まで駆けていって、数本のボトルを抱えて戻ってきた。

「見て、ここの旦那が作ったロランベリーワインよ! 一緒にどう?」

これは嬉しい申し出だった。まだ試作品らしくラベルさえ貼られていなかったが、栓を抜いた途端にロランベリーの甘酸っぱさを含んだ芳醇なワインの香りがふわりと広がった。口に含んでみると、素朴で優しい味わいが心に染みた。

女はよく話し、よく笑い、とにかくよく飲んだ。

やがて夜明けが近づいてきて、満天の星たちも眠りにつこうとしていた。

「いけない、見張りの時間だわ。今日こそ、あの盗人ゴブリンを捕まえてお仕置きしてやるんだから……」

女は立ち上がって、にこりと笑うと、おぼつかない足取りで持ち場に帰っていった。

残された私は、最後の1杯を飲み干して、柔らかな草の上に寝ころんだ。

暖かいガルーダ風が、ロランベリーの葉をざわめかせながら駆け抜けていった。

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