数週間かけてソロムグ原野を踏破した私は、当初そのままメリファト山地を越えて南下するつもりだった。しかし、聖地と呼ばれる地をひと目拝んでからでも遅くはないと思い直し、北のリ・テロア地方へ続く道を選んだ。
生まれて初めて足を踏み入れる、聖地ジ・タ……。そこは針葉樹の生い茂る、美しく神秘的な森だった。
清々しい空気を胸いっぱいに吸い込んで大きく伸びをした私は、天にまで届きそうな木々を見上げ、思わず感嘆をもらした。
それから地図も広げずにしばらく森の中を散策していると、少し開けたところで、巡礼者と思われる白いクローク姿の一行に出くわした。
この奥に何かあるのだろうか?
興味をもった私は歩みを止めて、静かな川の流れのように目の前をよぎる行列を眺めていた。
すると、そんな私の心を見透かしたのか、しんがりの男性がすれ違いざまにささやいた。
この先には、古くより名だたる僧や修道士が巡拝に訪れてきた神々の間がある。汝も救いを求めんとするなら、その場所を目指せ、と……。
私は、巡礼地というのがどんな場所なのか、ちらと覗いてこようとも考えたのだが、やはり信仰に熱心でない者は遠慮すべきかと思い直し、彼らとは別の方向に歩き始めた。
やがて、午後になると、小雨が降り始めた。間もなく本降りになりそうな空模様だったので、私は雨を凌いでひと休みできそうな場所を探すことにした。
それは行く手を阻む大きな岩を迂回した時だった。ふと横を見ると、その岩影に何者かがうずくまっている。
驚きのあまり、とっさに半歩下がった私だったが、すぐに魔物ではなくヒュームの娘であることがわかって気を緩めた。ところが娘の方は、うなだれたままだ。
どうも様子がおかしい……。ようやくその荒い息と不自然に投げ出された右脚に気づいた私は、慌てて彼女の前にしゃがんで肩に手をかけた。
「どうした!? 魔物に襲われたのか?」
彼女は、うっすらと目を開けると、辛そうに頷いた。顔色もよくない。
「……失礼」
娘の右足の革靴を注意深く脱がせてみると、足首がひどく腫れ上がって紫色になっていた。
この森をよく知らない私には、娘がどんな魔物に襲われたのか、見当もつかなかったが、ひとまずは常備していた軟膏を厚めに塗り、持ち合わせの木綿布を幾重にも巻きつけた。彼女は、途切れ途切れに言った。
「あの……、巡礼者の一行を見かけませんでしたか? 」
「ああ、彼らなら今朝方すれ違ったよ。ここよりずっと北の方でね」
「そうですか……。私も早く追いつかなければ……」
娘は長い杖を地面に突き立て、よろめきながらも何とか立ち上がったが、その表情はすぐに苦痛にゆがんだ。
「魔物の餌食になるだけだぞ!?」
「……それでも構いません」
数歩進んだところで、彼女は右足をかばってバランスを欠き、前のめりになって倒れた。白いクロークが泥水に染まった。
私は駆け寄って、彼女の上体をゆっくりと起こした。
「彼が……婚約者が戻ってこないのです。ずっと待ち続けているというのに……」
娘はその場に座り込み、力なく語り始めた。
ジュノ上層の裕福な商家に生まれた彼女は、サンドリア出身の両親の影響で、幼少の頃から毎朝欠かさずに女神聖堂に通い、祈りを捧げていた。
2年前の冬のこと。いつものように女神像の前にひざまずいていた彼女は、偶然そこを訪れたエルヴァーンの若者に見初められた。若者は冒険者だった。
いつしか、ふたりは将来を誓い合うようになり、娘は毎朝の礼拝の最後に若者の安全を祈るようになった。ある朝のこと、若者は仲間たちと共に獣人の砦へ向かった。
ジュノを発つ前に聖堂に立ち寄った彼は、静かに祈りを捧げていた娘に、こう言ったという。戦いから戻ったら、ここで式を挙げよう、と。
だが、その数日後、戻ってきた一行の中に、彼女の婚約者の姿はなかった。彼は戦いの最中にひとりはぐれ、行方がわからなくなっていたのだ。それから幾日待っても、娘の元に若者は帰ってこなかった。やがて月日が経つにつれ、誰も彼の名を口にしなくなっていった。娘は嘆き苦しんだ末、すべては自分の信仰が足りなかったせいではないか、と思うようになった。
そして、ある高僧の勧めに従い、決意したのだ。たとえどんな危険な旅になろうと、神々の間へ赴き、女神に祈りを捧げようと……。
時おり右足の痛みに声を震わせながら、いきさつを話し終えた彼女は、天を仰いで言った。
「彼には生きていてほしい……。それが叶うならば、この命さえも天に捧げる覚悟なのです」
私は、その思いつめた横顔を見つめたまま、冷たい雨に打たれていた。