あれは、タロンギ大峡谷に入ってから、まだ3日と経っていない日のことだ。
街道から遠く離れた場所で、偶然洞窟の入口を見つけた私は、何の気なしに足を踏み入れてみた。
地図にも載っていない洞窟だから、たいして広くもないのだろう。そう高を括っていたのがいけなかった。
数時間後、迷宮のように複雑な洞内で、私は道に迷っていた。
こういう時は、慌てて歩き回るのは禁物だ。少年時代に兄に言い聞かされたことを思い出して立ち止まると、ふと、薄闇の向こう側から押し殺した低い声が聞こえてきた。
「ほう……。新しいお客様ですかな? どちら様の御紹介で?」
目を凝らしてみれば、ゴブリンが壁にもたれて座っている。こんな洞窟の奥で、何を商っているというのか。売り物らしいものは、どこにも見あたらない。
ゆっくりと立ち上がり、のそのそと歩み寄ってきた彼に、一か八か、私は獣人銀貨を差し出した。
その途端、ゴブリンは目にも止まらぬ速さでそれを奪い取り、歯を立ててかじりついた。
「……これはまた、結構なお品で」
本物だとわかって満足したのか、ゴブリンはくぐもった笑い声を上げてそれを懐に収めると、背後の壁を両腕で押しはじめた。
すると、壁だとばかり思っていた扉が、おもむろに開きはじめた。
「主人たちが、奥の部屋で待ちかねております。尻尾を長くして……」
扉の先には、煌々と松明に照らし出された細い通路が伸びていた。通路を数歩進んだ時、扉が閉ざされる重々しい音が背後から響いた。
腹を決めた私は、奥の部屋とやらを目指すことにした。
しばらく歩くと、行く手から、岩壁に反響する騒々しい笑い声が聞こえてきた。どうやら、大勢の人間が集まっているらしい。
私は、怪しまれないように堂々とした態度で、部屋へ足を踏み入れた。
そこは、岩穴を改造した部屋だった。
あちこちに人だかりができていて、そこから歓声や罵声が上がっている。ありがたいことに、私に関心を払う者は1人もいなかった。少しだけ緊張を緩めた私は、入口近くの人だかりに近づいた。
見物客の輪に紛れ込んだ私は、側に立っていた背の高いエルヴァーンの肩越しに中心を覗いた。そこでは、4人の男女が粗末なテーブルを囲み、気だるそうにダイスを転がしていた。おおよそ予想どおりの光景だ。
「おい、見たかお前!? またあのミスラの勝ちだってよ!
ったく、とんだイカサマ勝負だなあ……!」
背の高いエルヴァーンのすぐ横で、ヒュームの男が叫んだ。テーブルを見れば、ちょうど正面の席に着いている小柄なミスラが、他の3人からチップ代わりのインゴットをかき集めているところだった。
「あのミスラ、ジュノから流れてきた本職だぞ。そんな奴が、まともに勝負しているわけがないだろうが」
エルヴァーンの男の素っ気ない物言いに、ヒュームの男は舌打ちした。
確かに、ジュノの街にはああいう輩が揃っていた。とりわけあの酒場の連中ときたら……。思わずこみ上げてくる笑いをこらえながら、くだんのミスラを眺めていると、彼女も不意に顔を上げて、まっすぐこちらを見据えた。
視線が合ったまま、私たちは互いにしばらく動けなかった。
数秒後、やっとのことである事実に思い至った私は、その均衡を破って彼女に声をかけようとした。
ところが彼女は、何を思ったのか、唐突にダイスを投げつけてきた。
ダイスは私の左胸を直撃し、それからぽとりと床に落ちた。
再び顔を上げると、彼女はそしらぬ顔で別のダイスを転がしていた。
「よぉ、兄さん、やるもんだなぁ。相手にされただけでも勲章モノだぜ」
帽子を目深に被ったタルタルの見物客が、そう言って冷やかしてきた。これ以上、人目を引くのはよくない。私はそそくさと床のダイスを拾って、そのテーブルから離れた。
別のテーブルから声がかかったのは、その時だった。
「ちょっと〜、そこのお兄さ〜ん。ここは初めてよね〜?」
「あたしたち3人と勝負してよぉ」
「ほらほら、早くここに座って!」
似たような声が、矢継ぎ早に飛んできた。いちばん奥のテーブルを見ると、3人のミスラがひらひらと手を振っている。どうも胡散臭い……。そう思った矢先、足元に立っていたゴブリンのギャンブラーが言った。
「新顔は、まずヤツらにギュウっと搾り取られる。それがここのやり方。誘いを断ったりしたら串焼にされて食われちまうゾ……」
ダイスの誘いを断ったくらいで、串焼にされるのは御免だ。私は彼女たちのテーブルに向かい、勧められるがままに空席に着いた。
見れば見るほど、ミスラたちはよく似た顔をしていた。ご丁寧に、髪型や格好まで同じだ。さしずめこの場を取り仕切っている3姉妹、いや、3つ子といったところだろうか。
「ふふ、お手柔らかにね〜」
猫なで声で言った左側の女がチップ代わりのインゴットを手際よく配った。その後、各々が1つずつダイスを選んだ。私は黒いダイスにした。
「じゃあ、お兄さんからどうぞぉ」
正面の席のミスラが、自分のダイスをもてあそびながら言った。
気乗りしなかったはずなのに、いざダイスを手にしてみると胸が躍る。
私は、右手に握っていた黒いダイスを、勢いよく投げた。