翌日の昼下がり、私たちふたりは、ユタンガの森に抱かれた美しき渓谷“隠れ谷”を抜けて、海蛇の岩窟に至った。

その名のごとく長く曲がりくねった洞穴を進んでいくと、やがて、どこからともなく潮の香りが漂いはじめた。

目的地は近い。逸る気持ちを落ち着けようと立ち止まった時、前を歩いていた娘も、ぴたりと足を止めた。

「ノーグはこの先よ。……捜し人、見つかるといいわね」

彼女が壁面に手を触れると、その一部が低い音を立てて開いた。奥には新たな道が続いている。私は小さく2度うなずき、その先へ足を踏み入れた。

「じゃあね。アタシはもっと奥に用があるから、ここでお別れ。なんだかんだで楽しかったわ」

「君がいなければ、ここまで来ることはできなかった。感謝しているよ。心から……」

彼女が返事代わりに微笑んだ時、ふたりの間で扉が閉ざされた。最後に見た彼女の瞳は、その笑顔とは裏腹に、静かな悲しみをたたえていた。

取り残された私は、しばし迷った末、娘の後を追うことに決めた。なぜだか、彼女の眼差しが脳裏に焼き付いて離れなかったのだ。

扉をこじ開けて、娘が向かったと思われる方へ走っていくと、いつしか私は袋小路に迷いこんでいた。辺りを探してみても人の気配すらない。

時間にして数分の遅れ。追いつけなかったはずがない。どこかに別の隠し扉があると見当を付けた私は、冷たい壁面を当てずっぽうに叩いて回った。すると、不意に壁面の一部が左右に開いた。

そこから奥へと延びる道で、私は娘の姿を見つけた。

薄闇の中で、妖しく揺らめく篝火。その緋色の炎が、彼女の立ち姿をはかなげに浮かび上がらせている。あの豪快な船長とは、まるで別人ではないか。私は、娘に歩み寄りながら、ふとそんなことを考えた。

「やあ。その……、また荷物運びでも手伝おうかと思ってさ」

隣にしゃがみ込んだ私に、彼女はうつむいたまま、つぶやいた。

「……おかしなヒトね」

傍らに荷物を下ろして顔を上げると、目の前に石を積み上げて作られた、小さな塔のようなものがある。

不思議に思いながら、それを眺めていた時だ。どこかに風穴でも空いているのか、篝火が生き物のように身を躍らせて、塔を照らした。正面に文字が刻まれていることに気づいた私は、それを確かめようと顔を寄せた。

「誰よりも……海を……愛したミスラ――」

私が途中まで読み上げた時、娘が両膝をついて座り、文字を覆っていた砂埃を払って、続けた。

「――ここに眠る」

ようやく事実に気づいた私は、思わず彼女の顔を見た。

「身寄りのないアタシを、実の妹みたいにかわいがってくれたひとだったの。娘を産んでからは、その子のために毎日働き詰めだったわ。けど……、ある朝、大しけの海に出たきり帰ってこなくてね」

彼女は、息苦しそうに胸元に手を当てて、話を続けた。

「結局、船は……、何日か経ってから、この近くの岸辺に漂着したの。主人の小さな亡骸を、やさしく守るようにして……。その船が、ゴールデンボニート号よ」

一瞬、全身が凍りつくような感覚に襲われた。彼女は、どんな思いで、あの船の舵を取り、あの海峡を渡ったのだろうか。

「残された子はね、“お母さんは遠くの海で働いてるんだ”って思い込んでる。今日で丸3年になるのに、アタシ、まだ本当のことを言ってないの。言えなかったのよ……」

尋ねるまでもなかった。カザムで見た、あの無邪気な少女たちの中に、亡きミスラの忘れ形見がいたのだ。そして、隣にいるこの娘は、母親に代わってその子を守り続けてきたのだ。何ひとつ本当のことを言えないまま……。

「けどね、いつかはあの子に本当のことを話すわ。それから、船を返して、このお墓もカザムに……。ダメ。“いつか”じゃダメなのよね。いっそ今夜にでも――」

彼女の言葉は、そこで途切れてしまった。いざとなると、不安でたまらないなのだろう。私は、カザムを駆け回っていた少女たちの姿を思い出しながら、娘に言った。

「その子は、きっと大丈夫さ。だってカザムの女だろう? それに……、君がいる」

彼女は「ありがとう」とつぶやいたきり、少しの間黙っていた。そして、唐突に私の背中を強く叩いたかと思うと、船の上にいる時と同じように、明るく笑った。

「ちょっとー、こんなところで一緒になって暗い顔してちゃダメよ。ほら立って! もっと背筋を伸ばす! よーし、なかなかいいわ。合格。じゃ、そのまま回れ右してノーグへ出発ー!」

急き立てられて荷物を担いだ私は、娘に言った。

「あのさ、君から彼女に伝えておいてくれないか?」

「え?」

「“ゴールデンボニート号は最高だった”って。もちろん、2代目の船長もさ」

「……バカね。あたりまえよ」

そう言って苦笑した娘は、指先で帽子のつばを引き下げてうつむいた。

私はふたりの船長に敬礼し、目的地へと続く道を、再び歩きはじめた。